自然との交流の仕方 [チョット気になる文章]
とりわけ日本には原生的な自然はほとんど存在しない。日本の山や谷には昔からそこにク暮らす人々が分け入り、自然が人間の立ち入りを拒むことはなかった。そして、自然との交流の仕方を人間が変えたとき、自然も変容していった。
とすると、現在の損傷されつづける自然の問題は、そういう交流する人間の問題として、そのような自然と人間の交通=労働の問題として考察されなければならないのではないだろうか。ところで、私のような釣り人は村人にとって、一面では都会から来る大事な客であり、同時に好ましくない客である。なぜなら村人には私たちは自然を荒らす人間のようにみえる。
ところが、都会の人間は反論する。確かに自然との付き合い方をわきまえぬ少数の不心得者は、私たちのなかにいるかもしれない。しかし自然を回復不可能なまでに損傷させてしまった主要な原因は、開発であり森林の伐採などであったはずだ。それを進めてきた責任の一端は村人にもあるのではないか、と。ここに釣り人と村人の間に、自然を荒らす犯人をめぐって長い論争が生じている。
この論争の奥には都市の「稼ぎ人」たちに対するぬぐいがたき不信感が、村人にはあるのである。それは自然との交流の仕方の違うものたちへの不信感である。
村の老人たちは山に入るときには鉈やノコギリを下げて、自然の生命力が高まるように手当てしてゆく。人間が山に入ること、それは山から収奪することであるとともに自然を育てることでもある。それが昔からの山に暮らす者の自然との交流の仕方である。
しかし、都会から来た人間達はそんなことはしない。釣り人は川から魚を収奪するだけであって、釣りの合間に山の道を直したり、木に絡まった蔓をはずすなどはあり得ない。とすると村人と都会の釣り人は自然との交流の仕方が全く異なっていることになる。それが自然の生命力を高めることをしない都会の釣り人に対する、根源的な不信感になっているのである。(内山節・自然と人間の哲学)
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自然との交流の仕方 とりわけ日本には原生的な自然はほとんど存在しない。日本の山や谷には昔からそこにク暮らす人々が分け入り、自然が人間の立ち入りを拒むことはなかった。そして、自然との交流の仕方を人間が変えたとき、自然も変容していった。とすると、現在の損傷されつづける自然の問題は、そう…[続く]










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